HOROSCOPE宿曜占星術 Profile

プロフィール詳細

 

はじめまして。

浩子グレースと申します。

一個人のプロフィールにご興味をもってくださり

心より感謝申し上げます。

 

私は大学卒業後、航空会社に入社し、

結婚、出産、子育て、親の介護など

ひとりの女性として経験を積みながら

今日までどうにか生き抜いてきました。

 

人生で、辛いことが起きても

「必ず、道は開ける。」

「今は、自分にできる精一杯の努力をしよう。」

と思いながら、

諦めずにコツコツとできることを続けて生きてきた結果が、

今の自分の姿だと思っています。

 

そして、いつも必ず目に見えない何かに、

おそらく亡くなった親や祖先、神仏に見守れ、

助けられてきたと確信しています。

🙏

 

念願の国際線CAとなって‥

 

 

 

 

 

©︎TBS「スチュワーデス物語」

スチュワーデス(現在のCA)を描いた、

人気ドラマ、1970年放送の『アテンションプリーズ』に続き、

1983年から1984年には、スチュワーデス訓練生を描いた、

堀ちえみさん主演の『スチュワーデス物語』が放映され、

スチュワーデス(現在のCA)が、私たち昭和女子の人気の職業となっていました。

日本の海外旅行ブームの幕開けと共に、大型ジャンボジェット機ボーイング747が次々と導入され、

私たちスチュワーデスは、海外に旅立つ多くのお客さまの笑顔に励まされながら、ハードなフライトスケジュールをこなしていました。

一見、華やかな職業のようですが、

気温30度を超える南国のマニラから、一日だけの休みをはさんで、

一気に気温マイナス20度の極寒のモスクワに飛ぶこともあり、

激しい気温差や気圧の変化、世界の時差との調整に身体がついていかなくなって、

慢性的な腰痛や生理不順があり、

休みの日にはひたすら睡眠をむさぼっておりました。

この頃20代でしたが、バブルの華やかさとはまったく縁のない

かなり地味な生活でした〜。

 

日航機、墜落事故の記憶‥‥

そして忘れもしない、1985年8月12日の夕刻、、

羽田発大阪行きJAL123便が、群馬県の御巣鷹山に墜落したというニュースが飛び込んで来ました。

2ヶ月前に入社したばかりのほやほやの訓練生の私は、

成田空港のJAL貨物セクションでの地上訓練中でした。

そしていよいよ翌月から、

客室乗務員としての本格的な訓練が始まる矢先の

この墜落事故は衝撃でした。

けれども、同期のだれひとりとして客室乗務員になることを

断念しませんでした。

それは、JALのスチュワーデスになることを目標にして、

学生時代からずっと努力して来て、やっとつかんだチャンスでしたから、

どんな困難な状況であっても、諦めるという選択肢はなかったのです。

墜落事故後の社内の張りつめた雰囲気の中、

厳しい訓練の日々が始まりましたが、

同期10名と共に、命がけの”覚悟”をもってあらゆる訓練に挑んだ記憶が、

昨日のことのように鮮明に蘇ります。

記憶に残るのが、羽田の客室乗務員、訓練センターでのモックアップ訓練のこと。

実際のジャンボジェットとそっくりな設備、

(ドラマでも撮影に使われることもある設備)での緊急着水避難訓練、

いわゆるDITCHING(ディッチング)訓練が行われました。

それは、機体が水面に浮かぶ、約30分というタイムリミットの中、

不時着時の衝撃防止体勢の指導、

水面不時着時の乗客のパニックコントロール、

機体の正確な状況判断、

クルー同士の連携、

救命胴衣の着用及び速やかな乗客の避難誘導

などを沈着冷静にしかも速やかに行う訓練でした。

その際、訓練所の水の入ったプールに、

避難用ゴムボートを浮かべ、

実践さながらの緊張感の中、

乗客を乗せて制限時間内に無事に避難を完了し、

教官から『537期の着水訓練全員合格!』

の言葉を聞いた時は、そろいのJALのつなぎ姿で抱き合って涙を流したことを、今でも鮮明に覚えています。

だから、同期はみんな、どんな時もどっしり肝が座っているのかもしれません。

 

緊急時は、笑顔で機内サービスする ”サービス要員” から、

一変して沈着冷静にお客さま全員を避難誘導する”保安要員”としての任務を、

確実に遂行することを訓練で徹底的にたたき込まれ、

常にプロとしての覚悟をもって乗務しておりました。

36年も昔のことなのに、今でもとっさに心の中で

「大丈夫、落ちついて!」という、

緊急時にお客様の精神的パニックを沈めるこの言葉を、呪文のように唱えることがあるのです。

これは本当に効果があって、どんな時もスーッと気持ちが落ち着くのです。

 

JAL退職後の人生の歩み

五年ほど国際線での乗務をしましたが結婚を機に一旦退職し、

契約社員として広報部のPR業務につくことになりました。

広報部では、”PRスチュワーデス”という呼び名で、

JALの制服を着てイベントに参加したり、講演活動などをしておりました。

あるときは初めて海外に修学旅行に行く高校生に、高校の体育館で機内や海外での注意点などを説明したり、

また、秋のホテルのブライダルフェアでは、これから結婚式を挙げるカップル向けに心ときめく旅のお話をしたり、

とにかくJALのイメージアップにつなげるべく、国内のあちこちに出張して講演活動を行っておりました。

この間、一年間、日本語教師養成学校にも通い、中学、高校の教員資格以外に、日本語教員資格も取りました。

その後、商社員の夫の転勤に伴って、英国ロンドンへ引越すことになります。

 

驚きとワクワクのロンドン暮らし

Typical architecture common in this upscale part of London.

 

映画『マイ・フェア・レディ』や『メリー・ポピンズ』を観てずっと憧れだったロンドンに暮らせるなんて!!と喜んだものの、

ロンドンに引越して間もないころの1992年頃は、まだSNSなどというものは全く普及しておらず、

日本の家族や友だちの声を聞きたくても国際電話料金はとても高くて、

3ヶ月に一度くらいしか日本とのコミュニケーションが取れず、寂しかったです。

また、「イギリス料理は不味い」と言われていて、

野菜などをグズグズになるまで煮込むイギリス料理にげんなりでした。

とにかく和食が食べたくてスーパーに行っても食材がなく、

鮭を焼いて醤油をたらして食べるのが、日本のごちそうメニューでした。

味噌、醤油は日本から持参していたので、それらしい和食は作れました。

お豆腐も手に入らず、「森永乳業の手作り豆腐の素」で粉から豆腐を作りました。

この手作り豆腐は、大豆のほのかな香りがしてたいそう美味しかった〜。

また、海外では生卵にはサルモネラ菌があって御法度の”なま卵”を、

どうしても食べたくなり、出張者の方に無理をお願いしたこともありました。

お土産に持参したくないもののトップ!であろう、

”なま卵”や”柔らかい食パン”を、

日本からだいじそうに下げて持参して下さった出張者の方に、

感謝のあまり手を合わせました。

ロンドン北部に英国初の日系スーパー「ヤオハン」ができたときは、

日本食はもとより、店内のヤマザキパンの焼き立てのトーストを求めて長い行列ができました。

イギリスの”おがくず”のような味の食パンが嫌で、

日本からパン焼き器を持参する駐在員も多かったので、これは本当に有り難かったです。

 

当時暮らしたのは、ロンドン南西部サウスケンジントンの、

LEXHAM GARDENS (レキサムガーデン)というおよそ築100年のフラット。

日本でいうマンションとほぼ同様の集合住宅で、その歴史ある建物の中に入ると、モダンで洗練された内装が施されていて驚きでした。

アート・デザインの中心として発展し続けてきた英国のインテリアセンスに大いに刺激を受けました。

ロンドンの中心部に近いサウスケンジントンという恵まれた立地に住めたお陰で、

テレンス・コンランによるロンドンで話題のインテリアショップ、

「ザ・コンランショップ」に足繁く通うこともでき、キングスロード界隈の新しい発見のあるアイテムに出会い触発される日々でした。

かの「QUEEN」伝説のヴォーカル、フレディ・マーキュリー様の最期の家もご近所でした。

また、当時32才だった私と同年齢のダイアナ妃が、ケンジントン宮殿からお忍びでロンドンの街を運転して、

高級エリアのナイツブリッジ辺りでランチする姿を、頻繁にパパラッチされておりました。

日本のロイヤルファミリーでは考えられない自由さに驚き!でした。

 

でも、言葉の壁は厚く、イギリス英語の発音にはどうしても慣れることは出来ませんでした。

特に英語で不自由したのは、あの赤い二階建てのロンドンバス。バスを降りる際に、運転手に目的の停留所の名前を言わなくてはならなかったのですが、

暮らしていたレキサムガーデンに近い停留所名が、「Cromwell Road

(クロムウェルロード)」と言い、

よりによって日本人に苦手なRとLの発音のオンパレード。(´∀`; )

毎回緊張しながら必死に発音してみるものの、運転手に通じることは一度もなく、

結局「Next stop!」と言って降りていました。

これはまずいと、週2でイギリス英語を習い、たびたび先生に

「あなたの英語はアメリカ英語で、イギリス英語とは違います。」と単語の使い方から直されましたが、

約2年半のロンドン生活でイギリス英語はほとんど聞きとれないままでした。

ロンドンでの生活には慣れてきたものの、社会から取り残されたような虚無感を感じ始めました。

何か仕事がしたい一心で、先ず日本語学校の教師としてロンドンの日系企業で働くイギリス人に日本語を教え始め、

次にダメ元で、現地の日本航空に履歴書を書いて送ったところ、

幸運なことにロンドンヒースロー空港内の日本航空外国人訓練所で、

現地採用のアイルランド人やドイツ人CAの日本語教官として働くこととなりました。

 

突然、ニューヨーク転勤

ロンドンでの仕事も充実し始めた矢先、夫が、突然ニューヨーク転勤ということで、

2年半暮らしたロンドンから、1995年12月の暮れに慌ただしく引っ越すことになりました。

商社員の夫は、海外転勤の際、家族より3ヶ月ほど先に現地に引っ越して、

住環境や子供の学校などを準備しておく決まりがあるため、

私も夫をニューヨークに見送ったあと、愛猫と共にロンドンで独り引越し作業を進め、

クリスマスは段ボールに囲まれて過ごしました。

そして、このとき妊娠2ヶ月と知り、つわりの吐き気と戦いながら

夫のいない海外引越しをしました。

愛猫(タマ)はひとまずイギリスのブリーダーに預かってもらい、私は一旦日本の家族に会うため一時帰国しました。

再び、日本から1996年1月の終わり、ニューヨークが積雪1メートルを超える記録的な大雪に見舞われた年、

空港閉鎖になる直然のJFケネディ国際空港に降り立ちました。

空港を出たとたん、吸った息が肺で凍るような痛い感覚を今でも思い出します。

ニューヨークでの新生活は、マンハッタンの8番街から9番街の49丁目に位置する、

50階建ての高層ビル、One Worldwide Plaza (ワールドワイドプラザ)でスタート。

マンハッタンでは、郊外に子育てに良い環境の家を見つけるまでの短い期間暮らしました。

連日マイナス10度の極寒のマンハッタン生活でしたが、街の醸し出すエネルギーの塊りのような、

独特のパワーに魅せられて、身重ながらもよく出かけたものです。

それからマンハッタン、グランドセントラル駅からHARLEM Line(ハーレム線)で北に30分ほどの、

ニューヨークの北の郊外にあるBronxville (ブロンクスビル)という街に移り住み、7月には無事娘を出産。

米国出産においては、分娩も入れて3日間の入院だけで退院させられますから、ヨタヨタ歩くのがやっとの私でしたのに、

アメリカ人女性は大股で闊歩して退院して行くのを見て、あっぱれ!アメリカ女性!の体力をあらためて認識した気がしました。

自然豊かなニューヨーク郊外ブロンクスビルでの、時をが止まったようなのんびりと平和な環境で、

娘は4才まで成長しました。

 

アメリカ同時多発テロ、9.11の前年にドイツへ

 

2000年8月、アメリカの同時多発テロの前年にドイツ、デュッセルドルフに転勤に。

夫はまたしてもニューヨークに私たち家族を残して、1ヶ月ほど先にドイツの支店長として赴任となり、

私は、4才になったばかりの娘と猫のタマの手を借りて約5年暮らしたニューヨークの家をどうにか引き払いました。

家以外にも銀行口座の解約手続き、自動車の解約など数々の手続き、

猫の海外引越しの検疫書類作成などなど、とにかく必死でした。

ニューヨークでは最後まで日本人駐在員の方々に助けられて、無事に

新たな赴任地ドイツに発つことができたことは感謝しかありません。

 

8月のドイツは夏の新録が鮮やかな時期で、人々は短い夏の太陽を思う存分吸収しようとして、上半身はだかで公園に寝そべっているのが驚きでした。

それもそのはず、ドイツの冬の日照時間はとても短く、娘を車で幼稚園に送る朝8時半ころはまだ夜明け前で暗く、お迎えの夕方4時頃にはもう日が沈んでしまいます。

朝はよく濃霧が発生して、視界が1メートルくらいの中を恐る恐る運転したり、

路面凍結でコーナーでハンドル操作が効かなくなって、180度車が回転するような体験もしばしばでした。対向車がいなかったことに、ホーッと胸を撫で下ろしたものです。

それでも、ドイツでは暗く寒い冬の風物詩としてランタンパレードやクリスマスマルクトなど、

子供も大人も心温まる行事がたくさんありました。

ドイツの自然豊かな環境で、娘は小学校5年生までのびのびと成長することができました。

 

けれども、ドイツでの7年半の間、冬の季節があまりにも長く暗く、仲良くなった友人も次々と日本に帰国して行き、

なんとなく取り残された様な気分になり、私は次第に気分がふさぎがちになって軽い鬱状態になってしまったのです。

朝起きると、「あー、また今日という苦しい1日が始まってしまったのか。」と感じ、体が鉛のように重く布団から起き上がることが本当に辛いのです。

それでも重い心と体を引づるようにして、毎日車を運転して娘を学校に送りました。

娘を送った帰り道、やはりどうしても心が痛む感じて、運転できなくなって途中の路肩で停止して、

いわゆる『自己啓発書』を心の救いを求めて読みふけりました。

「この世にわたしは居なくて良い」と言う思いがとても強かったのです。

数年かかりましたが、独りでいろいろもがき苦しんで、

そのうち、また新たに心を分かち合える友人ができたりして、少し自分の意思で行動ができるようになり、

ある日ふっと鬱の闇から抜け出た気がします。

今思うと、この時のわたしの年齢は、まさに40代前半のプレ更年期が始まった時でした。

ホルモンバランスが崩れ、心や身体にさまざまな変調が起きて、

更年期を終えた今のわたしが思うに、更年期よりずっとしんどかったように思います。

帰国した時は40代後半でした。

すぐに婦人科に行き、低容量のホルモン補充療法を開始すると、

その翌日から、頭の上の霧がパーッと晴れたように軽やかで、活力が湧いてくるのを実感!

あ〜もっと早く始めればよかった、とつくづく思いました。

ドイツでの深い鬱の沼の中に落ちていた時期は、

海外にも、母国語「日本語」で相談できる心理カウンセラーがいたなら

もっと早期に、独りもがき苦しまずとも、心の健康を取りもどしていたと思うのです。

 

海外での出産、子育て、人間関係etc、いろいろ悩みつつも、

人さまに助けられながら、

その瞬間、瞬間を、二度と取り戻せないかけがえのないものとして、親子でどうにか海外で生き抜いて来れた気がします。

海外駐在中に、突然あの世に旅立ってしまった父や義理の母のことは無念でしたが、

いつも近くで私たちを見守ってくれていることを感じることができました。

 

ドイツから日本へ帰国してからの日々

7年半暮らしたドイツから2007年7月に家族で帰国。

その後は、縁あってインターナショナルスクールにて、中学、高校の日本語、国語の教師として教壇に立っております。

生徒の心に寄り添うことを念頭に、日本の文学や国語を学んだ教え子たちが、将来真の国際人としてグローバルに活躍してくれることを願いつつ授業を続けています。

 

 

これまで長く、海外の国を転々とする不安定な暮らしのためか、

家族や自分の心身の健康を守る大切さを知り、

人生の開運法にとても興味持っていました。

外国でも環境開運術でもある ”風水” の智恵を取り入れたインテリアを試してみたり、

方位によって開運する ”奇門遁甲(きもんとんこう)” とう言う占術を研究してみたり、

とにかく掃除をまめに、室内を浄め、神棚を祀り、先祖の墓参りや地域の氏神神社のお参りを心がけたり、

自分と家族の運気が上がるようになんやかやと行動して来た結果、

不幸なテロや事件に巻き込まれることなく、それぞれの国での駐在生活をどうにか無事に送ることができたと感じています。

やはり古来から開運法として、人々が信じ、実践してきた智慧には、

確かに底知れない開運のパワーが存在すると実感してきました。

 

ある日、宿曜を知る

『宿曜占星術』のことは、ある日偶然導かれるまでは全く知らない占術でした。

宿曜占星術の師範、竹本光晴氏に弟子入りすることができ、真剣に学びを深める中で、

この宿曜の智慧が、自分が経験したような苦しい思いをしている人の一助になることを確信したのです。

 

「宿曜占星術」に関しての説明は、別の記事にしておりますが、

弘法大使、空海がおよそ1200年前に、中国から日本にもたらしたこの占術の的中率は恐るべし!です。

1年の運勢と毎月の運勢、そして毎日の運勢を、生年月日から細かく解き明かして行くのです。

私も家族も、自らの運勢のバイオリズムをよく把握して日々を過ごせるので、

色々不安のある世の中でも、心強くいられるのです。

たとえ、運気が低迷する時期でも、賢く切り抜ける暮らし方や思考方法を示唆してくれます。

そして再び運気が上がる時期を先読みして備えることで、

強運を勝ち取るタイミングがつかめるのです。

また、人間関係がストレスの大きな原因と言われる現代社会では、

「宿曜占星術」の ”相性占い” が大いなる救いとなりそうです。

職場の同僚や上司、または恋人や家族との相性をあらかじめ知ることで、

相手との上手な距離のとり方や適切な対応の仕方がわかるのです。

人間関係で、無用なストレスを増やさないための処世術として、おすすめの占術だと思います。

私はこれからも末長く、心のお守りとして「宿曜占星術」を人生の指針にして行きたいと思っています。

「宿曜占星術」による、運気の流れと相性を読み解く占いを通して、

より多くの人を開運に導くアドバイスをしたいと思っております。

 

母として、教師として、また大人の女性として、

日々の気づきやライフスタイルのヒントなどを、発信して行きたいとも思っています。

少しでもあなたの運気UPのお役に立つことができれば、幸せに思います。♡♡♡

 

これまでの人生にたくさんの感謝をこめて(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

                            浩子グレース

 

 

 

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