宿曜占星術とは?
宿曜占星術は、約3000年前インドで暦(こよみ)として発祥し、弘法大師空海が中国から持ち帰った密教占星術をもとにする占術です。
その原点は古代インドまでさかのぼります。さらにさかのぼると、ギリシャ・バビロニアに発した占星術が、紀元2〜3世紀にインドへ伝えられインド占星術として大成したのです。
中国から空海が持ちかえった宿曜占星術のルーツはバビロニアであり、ホロスコープを使って占う「星占い」だったのです。
宿曜占星術の誕生秘話とは‥?
宿曜占星術とは、仏教の経典のひとつである『宿曜経(しゅくようきょう)』のなかで述べられている占星術のことです。この「宿曜経」は漢文で書かれた仏典集「大蔵教」のなかに含まれている経典のひとつです。
その内容は、インド占星術そのものであり、仏教の教理とは無関係といえるものでしたが、仏典を装っていたことで、この書物は弘法大使空海によって日本へ伝えられ、宿曜占星術の誕生となったわけです。
このインドで生まれた経典「宿曜教」を中国に紹介したのは、不空三蔵(ふくうさんぞう)という僧侶でした。中国は唐の時代で、長安の都は空前の密教ブーム、日本から遣唐使として空海が唐にやってきたのは不空三蔵が亡くなってから30年後のことでした。
宿曜占星術を日本に伝えたのは、空海!
空海が日本に伝えた原典名は「文殊師利菩薩 及諸仙諸説吉凶時日善悪宿曜教」(もんじゅしりぼさつ およびしょせんしょせつきっきょうじじつぜんあくしゅくようきょう)というお経のことで、この長いタイトルを省略して、『宿曜経』(しゅくようきょう)と呼んでいます。
この不思議な書物は経典としてではなく、大きな霊力をもった古代インド占星術を今に伝えるという形で存在しています。中国に初めて紹介した不空三蔵の功績は称賛すべきものだといえるでしょう。
806年に空海が持ち帰った多くの仏典のなかに「宿曜教」が含まれていたわけですが、引き続き天台宗の高僧円仁が847年に、さらに円珍が858年に日本に持ち帰っています。
やがて、この経典を基礎にして宿曜道という占いの一派が形成され、平安時代には陰陽道と人気を二分するほどになります。
中国に渡った空海が、不空三蔵の弟子である恵果から秘伝として伝授された「宿曜教」は、日本では、高野山、比叡山、三井寺などの密教僧たちの間で研究が勧められました。
いつしか、宿曜教を極めた僧は宿曜師と呼ばれ、かれらの占い技術は宿曜道と呼ばれるようになりました。
朝廷の庇護のもとに発展していた陰陽道は、依然として隆盛を誇っていましたが、次第に宿曜道も平安貴族のなかで定着していくのです。
一般庶民には知られなかったのはなぜ!?
宿曜道は平安貴族や僧侶のなかに浸透していきましたが、世の中を統治するための羅針盤として特権階級だけの独占となって、一般庶民には伝わりませんでした。
その後、日本が武家政治の時代に入ると、上流階級の伝わり、やがて軍略と結びついていくのです。
源氏には代々伝えられた秘伝の天文書があり、源頼朝や義経も軍略としてもちいていたといわれます。また日蓮上人が「立正安国論」のなかで、八大恐怖の大難を説き蒙古襲来を予言したのも宿曜道によるものと記録が残っています。
戦国時代になると、武田信玄が戦で使用した軍配には宿曜占星術の星宿が描かれています。この軍配は武田家ゆかりの恵林寺(公式サイト)に保存されています。
信玄は青雲の動きから吉凶を占う「望気」(ぼうき)という術を学んでおり、戦国最強を誇った武田軍は、宿曜道の占星術に従った戦略をとっていたのです。
また真田幸村、竹中半兵衛なども占星術を軍略として大いに活用して、まさに天運を我が身に引き込むことが戦いの第一歩でした。
江戸時代になると‥
江戸時代になると、江戸幕府、徳川家康の黒幕的存在となった怪僧、天海(かいそう、てんかい)は、大名の政策に宿曜道を活用し徳川家に重用されました。
そして、江戸時代に入ると、かつて国家機密とされた陰陽道は庶民一般の間に広まり、幕府がこれらを取り締まるほどでした。
一方、宿曜道は一子相伝、口伝によってのみ伝えられていたので、取り締まりの対象にはならなかったようです。
宿曜は、このようなさまざまな歴史的経緯を経て、私たち宿曜占星術師に引きつがれているのです。
現代の生きづらい世の中で、このすばらしい占術をみなさまもマスターして、強運をしっかりつかんでいってください。
自分の運命を知れば、運気の波を的確に判断できます。
最高の運気の日を選んで、幸運をつかみ、
自分ののぞむ未来に変えることができるのです。